夏だし自分より年下の不気味な母親について話したい
父は私に気づいたが、なにも言わずに二階へあがっていった。
「おかえり、ユイちゃん」
カホがリビングから出てくる。
「なにかあの人とあったの?」
「べつになにもないよ?」
「あの人が声を荒らげてるのなんて、見たことないんだけど」
きっと疲れてるんだよ。
それだけ言うとカホはリビングに引っこんだ。
その日はめずらしく『家族三人』での食事だった。
だけど、会話らしい会話はほとんどない。
カホが一方的にしゃべっているだけ。
以前までは父も話していた。
だけど最近は、声を聞くことさえなかった。
父が食事を終えて、リビングから出ようとしたときだった。
「お風呂に入るでしょ?」
静かな居間に、カホの声がひびく。
父は立ち止まりこそしたが、ふりかえりはしなかった。
その背中にカホはまた同じ言葉をかける。
「お風呂に入るでしょ?」
仕事で忙しければそんな簡単にはいかんぞ
資金的な問題もある
「お風呂に入るでしょ?」
背筋が薄ら寒くなるのを感じた。
この女はついに父にまで、自身のもつ狂気を向けたのだ。
「俺はやることがあるんだ。
あとから入るからお前とユイが先に入れ」
父の声は明らかに苛立っている。
「お風呂に入るでしょ?」 何度目かになるカホのセリフ。
カホの顔には、あの微笑みが張りついていた。
「お風呂に入るでしょ?」
父がカホを振り返る。
「……わかった。入るよ」
「うん。一番風呂で寒いかもしれないけど我慢してね。
あ、お父さんが出たら次はユイちゃんが入ってね」
私はだまってうなずいて料理を口にする。
口にふくんだカホの料理は冷めきっていた。
重くのしかかるような空気が、家全体を覆っていく感覚には覚えがある。
この家が私にとって、心安らぐ場所だったのはいつのころだったのだろう。
ここのところ、まどろみの中で『母』をさがす夢を見る。
この日もずっと『母』をさがしていた。
だけどなにか大きな音がして、唐突に現実に引きずり戻された。
からだを起こして、机のうえの目覚まし時計を確認する。
時刻は夜中の二時だった。
音はリビングから聞こえた。
私がリビングへと駆けつけると、父とカホがいた。
「な、なにがあったの?」と私の問にはふたりとも答えなかった。
「お前が悪いんだ……」
父の顔は怒りに強張っていたけど、同時に紙のように白かった。
やせ細って骨ばった父の拳には赤い血がこびりついている。
呆然とする私を父が横切ってリビングから出ていく。
「どこへ行くの!?」
私は父を問いただすために追おうとして、結局やめる。
カホの様子を見ることを優先した。
唇の端が切れたのか、出血していた。
父がカホに手をあげたことに、私はなぜかショックを受けていた。
「言いすぎちゃったのかな。怒らせちゃったみたい」
カホがおかしそうに笑った。
笑うと唇が痛むのか、その微笑はいつもとちがっていた。
「またなにか言ったの?」
「少し注意しただけだよ、わたしは」
「それだけで手をあげたって言うの、あの人は?」
「そういう人でしょ、あの人は。
あなただってそんなことぐらい、わかってるくせに」
私は肩をかして、ソファにカホを横たわらせた。
カホが答えようとしないので、私はそのまま続ける。
「あの人はクズだよ。お母さんだってあの人のせいで……」
「そうだね」
カホは自分のお腹に手をおいた。
「あの人は奥さんがいても、平気で不倫とかしちゃう人だからね」
母の生前、父が不倫をしていたことを私は知っていた。
そして、その不倫相手の一人が目の前の女なのだ。
「わかってたんでしょ? 」私は言った。
「アイツが人間としてどうしようもないクズで、最低なヤツだって」
「じゃあ、どうして!?」 と私は思わず声をあらげた。
「幸せになるためよ」
カホ自分の腹部へと視線を落とし、
そのまま自身の手を腹部へともっていく。
「どんなことをしてでも、なにをしてでも」カホの声が冷たくひびく。
「わたしはわたしの幸せを手に入れるの」
「どんなことをしても……?」
「ええ、どんなことをしても」
幸せになる。
カホが自分に言い聞かせるように、もう一度言う。
その言葉はしばらく私の鼓膜にこびりついて、はなれなかった。
「……とまあ、だいたいこんな感じなわけ」
私は話すのをやめて、カクテルを思いっきりあおった。
「先輩、飲み過ぎじゃないですか?」
後輩の声がぼんやりとしか聞こえなかった。
この時の私は、たぶん酔っていたのだろう。
「それで? そのあとはいったいどうなったんですか?」
「お父さん? 死んだよ」
後輩の顔がかたまる。
予想通りのリアクションだった。
やめろ
「さっきも話したけど。
父がカホに手をあげて、一週間ぐらいしてからね」
「そうだったんですか」
後輩がしぼりだすように相槌をうつ。
「てっきりさ、殺したと思ったんだ」
「え?」
アルコールのせいで、言葉がチグハグになってしまう。
私は言い直した。
「だから、カホがあの人を殺したと思ったの」
後輩の声が低くなった気がした。
私は構わずに言葉を続ける。
「いや、単なる勘。だって、ありそうな話じゃない?
暴力ふるわれた女が、それをきっかけに男を殺そうとするって。
ありそうじゃん、サスペンスとかで」
「でも、その人は先輩のお父さんを殺してないんでしょ?」
「おそらくね」と私はためいきをつく。
「父が殺された時間帯、あの女には完アリバイがあったみたい」
そう。私の予想は外れた。
捜査の結果では、カホには完全なアリバイがあったらしい。
「全然。いまだに捜査中だね。 もう半年近く前の話なんだよね」
「本当に警察ってば捜査してんのかな」と私が言うと、後輩は苦笑いした。
「犯人、早く見つかるといいですね……」
「そうだね」
私の返事は自分でも笑ってしまうほどにぞんざいだった。
「きみも気をつけて。世の中本当に物騒なんだから」
「そうっすね。オレも全身殴打で死亡とかいやですからね」
「はは、それは私もだよ」
違和感が脳のどこかで引っかかる。
でも流し込んだアルコールのせいで、
その違和感は、あっという間に喉のおくに消え失せた。
後輩に会計をまかせて、私は店を出た。
遅れて後輩も出てくる。
夜風が肌を突き刺してくると、不意に不安が頭をもたげた。
「今日はありがとね。私の話、聞いてくれて」
「いや、少しでも先輩の力になれたならよかったですよ」
鼻のおくがツンとした。
アルコールのせいなのか、私は情緒不安定になっているのかもしれない。
「ここんとこさ、私の生活めちゃくちゃでね」
「……先輩」
気づくと視界が滲んで、目の前の後輩の輪郭さえ曖昧になっていた。
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